2026/06/28 19:43

薄毛の話を書こうと思ったのは、たぶん私が、ずっとうしろめたかったからです。
私の父は、50代の後半から頭頂部が薄くなり始めました。朝、玄関で靴を履く前、廊下の鏡の前で短く立ち止まる。指先で前髪を右から左へ流して、もう一度鏡を見て、小さく息を吐いて、それから出かけていく。家族の誰も、その数秒のことに触れませんでした。私もです。気づかないふりをするのが、優しさだと思っていたからです。
でもたぶん、あれは優しさじゃありませんでした。ただ、自分が気まずかっただけです。父の前髪のことを、私はずっと、自分の中だけで抱えていました。
父はある日、大きな病院のAGA外来に行って、フィナステリドという薬を処方してもらいました。月に1万円ちょっと。最初の数ヶ月は、副作用のだるさに黙って耐えていました。それでも通い続けていたのは、「やめたら元に戻る」と言われたからです。父が本当に欲しかったのは、髪だったのか、それとも、自分の顔を鏡で見ても平気でいられる朝だったのか。いまだに私にはわかりません。わからないまま、父は通い続けました。
私が、思い出すこと
電車の窓ガラスに映った自分の頭頂部を、短く確認する人がいます。一瞬で、すぐに視線を外す。他の誰も気づいていない。たぶん本人も、次の駅に着く頃には、自分が今それを見ていたことを忘れている。
父も、たぶん、そうやって生きていた時間が長かったのだろうと思います。診察は5分で終わって、血液検査と薬の処方が淡々と進んでいく。受付で会計を済ませて外に出る頃には、もう仕事のことを考えている。効いているのか、効いていないのか、よくわからないまま、半年が過ぎ、一年が過ぎた。やめたら戻ると言われているから、やめられない。でも通い続けている自分に、どこかで疲れている。クリニックから帰ってくる父の足音が、いつからか少し遅くなっていたのを、私は玄関で聞いていました。
自分で、調べてみたこと
父の通院を見ていたあの頃から、私は薄毛について自分なりに調べるようになりました。誰かに教えたいからではなくて、たぶん、父にかけられなかった言葉の続きを、自分の中でやっていたんだと思います。
調べていくと、薄毛に対して取れる選択肢は、おおよそ4つに分かれていました。
1. AGAクリニック(フィナステリド/デュタステリド/ミノキシジル)
父が通っていた場所です。現時点で、最もエビデンスが蓄積されている選択肢。薬理的なメカニズムがはっきりしていて、多くの人が実際に髪の密度の変化を経験しています。一方で、月1万〜3万円の継続コスト、通院の手間、そして少なからず報告されている副作用(性機能・気分の変化など)が、生活のどこかに負担として残ります。「やめたら戻る」という性質上、一度始めると長期戦になります。父はこれを選び、何年も通い続けていました。
2. LLLTを導入しているクリニック
低出力レーザー療法(Low-Level Laser Therapy)を、医療機関で受ける選択肢。薬を使わないので、副作用の心配はほとんどありません。ただし1回あたりの費用と通院頻度を考えると、時間とお金の投資はそれなりに必要です。海外では2007年以降、FDAが家庭用LLLTデバイスの一部を「脱毛症への安全性」として承認してきた経緯があります。父がこの選択肢を知っていたかどうか、私にはわかりません。
3. 自宅でのLLLT機器
ここ10年くらいで、家庭用のLLLT機器が選択肢として現実的になってきました。通院の必要がなく、1日数分から始められて、薬のような全身への作用がない。ただし効果の実感までには、週に数回・数ヶ月単位での継続が必要だと、研究では報告されています。「明日には結果が出る」類のものではありません。私たちが扱っている明王も、このカテゴリです。調べながら、父の毎朝のだるさがなければ、と何度も思いました。
4. 何もしない
何もしないことは、諦めることと同じではありません。薄毛と共に生きていくと決めた人の顔には、独特の落ち着きがあります。父を見ていて、そう思ったことが何度かありました。

光のこと
調べているうちに、私は少しだけ、この光のことが好きになりました。
LLLTで使われる赤色から近赤外の波長——だいたい630〜680nm、あるいは800〜830nm付近。この光は、目に見えるか見えないかの境目にあります。
惹かれたのは、この光が「奥まで届く」ということでした。
頭皮の表面に当たった光は、そこで止まりません。皮膚を通り抜け、皮下の組織を通り、毛包のまわりにある細胞の、そのさらに奥——ミトコンドリアという、細胞の中にある小さなエネルギー工場にまで届く。薬は血流に乗って全身をめぐりますが、この光は、当てた場所の奥へ、まっすぐに届いていく。

リビングの赤い光
去年の暮れに、実家に帰ったとき、リビングのテレビ台の横に見覚えのないものが置いてありました。小さな機器で、赤い光が出る。家庭用のLLLT機器でした。
母に聞いたら「お父さんが自分で調べて買った」と、少し呆れたように笑っていました。
夜、テレビの音が消えたあと、父がソファに座ったまま、それを頭に当てているのを見ました。目を閉じて、少し顎を上げて。薬を飲んでいた頃の、あのだるそうな朝の顔とは、違う顔をしていました。

数分で、静かに終わる。父はそれを棚に戻して、そのまま寝室に向かう。
玄関の鏡の前で前髪をなおしていたあの手つきを、私はもう責めません。あれも祈りだったのだと、今なら思えます。そして、リビングで目を閉じていたあの数分も、たぶん、同じ祈りの続きなのだと思います。
あなたの夜にも、静かな光が届きますように。
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